「正解を探ること」と「問題に挑むこと」

「正解を探ること」と「問題に挑むこと」。

 

一見、同じようにも思えるのですが、私の仕事の経験からすると両者は明らかに違います。

 

何らかチームでプロジェクトを進めていると、いつも間にか上司や取引先が頭に描いているであろう「正解」を探るような思考にチーム全体が囚われることがあります。経験上、こういったときはたいてい上手くいきません。しかも「正解」に合わせて情報を組み立てていくので、どこか強引なところがあり、やっている自分も楽しくありません。

 

一方、「問題に挑むこと」は、「問題」に対して「謎を解く好奇心」で動いています。チーム全員がそれぞれの観点から謎に迫っていきます。当然、考え方や拠り所が違うので意見が対立することもあります。ですが、自分と異なる意見に大いに刺激されますし、新たな発想が生まれるきっかけともなります。異なる視点の持ちよりが、議論を重ねるにつれひとつの形にまとまっていき、独りでは考えつかなかった答えに到達します。これこそチーム作業の醍醐味ですね。上手くいったプロジェクトは、だいたいこのように「チーム全体が問題を解くことにフォーカスしている」といった傾向があります。

 

 

私たちは、厳しい環境を生き残るために「関係する相手」に好かれようとします。

その相手が考えている「正解」に準じることで安心を得たいと考えています。

そうした心理は、特に独りで生きていけない子供時代に必要とされます。

 

しかし、大人となった今では、相手の意向に沿うことが必ずしも良い結果を生むとは限りません。

「未解決の問題にお互いに知恵を出し合う楽しさ」が良い関係を生み出す起点ともなるからです。

 

 

また、「正解」を探るもうひとつ別の心理には、これまで身につけてきた教育の習慣というものも働いているでしょう。

 

私たちは「用意された正解」をすべて当てると100点がもらえて自尊心が満たされるという感覚がしみついています。でも、実社会には「唯一の正解」というものはありません。自ずと試行錯誤になるので失敗も多々生じます。上手くいかないのはやっぱり心が折れます。また、「失敗を奨励する」ともよく言われますが、実態は正反対だったりすることもよく見られる光景です。ですから、私たちが、つい「正解」を求めてしまうのも無理はありません。

 

 

「正解を探ること」と「問題に挑むこと」。

 

私は「問題に挑むこと」に気持ちを向けたいので、そうなるよう意識していますが、みなさんはいかがですか?

 

この問いにも「正解」はなく、一人ひとり自分の状況で考えていくことなのかもしれませんね。