人生は可能性であふれている

今こうしてブログを書いている自分がいる。

 

けれども、もちろんブログを書かずに別のことをすることもできる。

 

本を読んでもいいし、テレビを見てもいい。外に出かけてもいいし、だらだらと過ごしてもいい。寝てしまうことだってできる。

 

僕らは意識的にせよ、無意識的にせよ、常に何らかの選択をしている。「何もしない」ということだって、いろいろできる行動を捨てて、選択した結果。そう考えると、人生は毎秒毎秒、自分で生み出していると言える。

 

 

一方で、暮らしていれば「やらなければならないことが次々と降ってくる」という感覚もある。

 

仕事や家事、学業には、自分の意思に関わらず「やらなければならないこと」がたくさん含まれている。これを「やらされている」と捉えると、とっても苦痛であることは間違いない。しかも「やらされること」で高いレベルの完璧さを要求されると神経をすり減らし、上手くできないものなら出来ない自分を責め、そこから逃げ出したくなる。誰だってそうだ。

 

 

でも、行動にたくさんの選択肢があったように、モノゴトの捉え方にもたくさんの選択肢がある。

 

「やらなければならないこと」は、必ずしも全てが絶対やりたくないことで出来ているわけではない。

 

好きな家事・嫌いな家事があったり、得意な仕事・苦手な仕事があったり。学業でも、成績は振るわなくても好きな分野という何となくの感覚差があったりする。そういった自分の中のフィット感に早めに気づき、そこで得られる充足感を意識して味わい、自己分析してそれを自分の軸として自分を育てていくのがやっぱりいいと思う。

 

「やらなければならないこと」は、集団行動の中で発生するものだから、それを受け身で処理しているうちは、なかなか「やらされ感」から脱出することはできない。多くの「やらなければならないこと」を「自分のフィット感を掘り起こすたくさんの機会」をとらえて、早く自分が無理なく、好んで動ける領域を発見するという意図をもって能動的に取り組む必要がある。

 

その結果、自然と役割分担や自分のポジションができてきて、足りないところを補い合うチームワークが生まれてくる。組織もお互い快適なものへと一段レベルアップする。

 

 

フィット感の核となる「自分が好きなこと」は、誰かが教えてくれるわけではない。自分の感覚を自分で細かく吟味しないとつかめない。細かく吟味するには、たくさんの試行錯誤で“経験の味覚”を時間をかけながら育てていかないと。それがやがて、自分の個性、強みになっていく。

 

 

・・・なんて、こうして書かなくてもいいいいブログを、今週も「書く」という選択をした。使った言葉や文章も、あれこれ迷いながら定着させる「選択の連続」。いろんな表現の可能性の中から、ひとつのカタチへとつむぎ出された結果。

 

これもひとつの小さな可能性のカタチ。