自分の話し方

自分の話し方って、「どんな印象なんだろう?」「どう受け止められているんだろう?」と思うことはありませんか?

 

でも、人から言われない限り、自分ではわからないですよね。

 

話し方は人によって違います。誰一人として同じ人間はいませんから、違って当たり前ですよね。

 

声の大きさ、高さ、調子、使う言葉、表情や身振り手振り、話のもっていき方など、実に様々な要素がありますから、違って当然です。そうした表現要素をどう組み合わせて使うかは、これまでの生活の中で経験的に身につけてきたものですから、自分としては自然に出てくるものに感じられます。

 

逆に、意識して上手く話そうとすると、ギクシャクしてかえって変な感じになったりしますよね。

 

一部、交通情報の案内や報道アナウンサー、接客、ガイドなど、決まった語り口で話す職業がありますが、相当練習した上で、プロとして求められる場面に求められるものを提供すべく、その瞬間に日常と仕事のスイッチをパチンと切り替えているのだろうなと思います。技術ですね。

 

さて、私たちの多くはそのような職業ではないので、人それぞれ個性を持った話し方になります。

 

より上手く話せるといいなと思っても、先ほど出てきた職業的な話し方が求める上手さかというとそうでもありませんよね。

 

職業的に求められるのは、話し手個人に関心が向かうことなく「情報を正確に届けること」であったり、「会社として一様な印象を持ってもらう」という目的を果たすものです。一方、普通の会話では、「自分の気持ちを聴いて欲しい」であったり、「相手自体や考えを知りたい」「いい関係を作り・維持したい」といったことが主な意図になりますよね。つまり、そこでは、相手への好意的な関心とある程度の自己開示が前提条件となってきます。

 

ですが、現代社会では、この前提条件がなかなか難しくなってきているのではないかなと感じます。

 

学校生活ではいじめがあったり、社会人では能力主義による生存競争があったりと、危険を避けて自分を守らざるを得ないような状況が多く、安心して自己開示できるような環境が少なくなってきているのではないでしょうか。そういった環境では、相手への好意的な関心というよりは、相手を探る意図を持ったコンタクトも多くなってきます。

 

なんだかとても息苦しいですね。

 

では、こういった状況をどうすれば打破できるのか?

 

もちろん、会社であれば経営陣・管理職、学校であれば校長先生以下の職員のみなさん、家庭であれば親といった、場の雰囲気・組織文化に大きな影響力を持つ人たちが、積極的に心理的安全性のある環境づくりを進めていくことが不可欠です。

 

ですが、それを待っているだけでは自分の状況は変わりません。

 

個々人でも、相手への好意的な関心を持ち、ある程度の自己開示に勇気をもって取り組んでいく必要があります。それは、何も「みんなと仲良くする」という小さな頃に習った教えに従う必要はありません。大人になって、趣味嗜好もはっきりした今、話ができる人が数人もいれば充分です。

 

「自分の話し方」は結局、「どう受け止められるだろうか?」と自分に向かっている関心を、相手に対する好意的な関心へと切り替え、そこで相手から得たものに応じて自分のことも開示していく勇気によって自然と生まれてくるものなのではないでしょうか。そこに上手い話し方・下手な話し方もありません。

 

結局、「自分の話し方」なんて、気にしなくてもいいのかもしれませんね。

 

もしも、相手と話が続かないのなら「自分の話し方」が悪いのではなく、「相手への好意的な関心」か、「自己開示への勇気」のどちらかをもうちょっと足してみるといいのではないでしょうか。

 

相手の良い面に目を向け、相手を信じて、ざっくばらんに話してみる。

 

そこから始まる会話は、きっとお互いが協力してつくる「いい会話」になるのではないでしょうか。